テオティワカン遺跡は、メキシコシティの北東50kmに位置する世界遺産に登録された遺跡です。紀元前2世紀から6世紀まで存在した、テオティワカン文明最大の宗教都市です。最盛期の人口は10万人といわれ、世界的に見ても当時の最大の都市の1つでありました。天然資源が豊富な渓谷に位置し、メソアメリカ文明の中で政治、経済、商業、宗教、文化の面で最も影響力がある都市でした。
アステカ人がやってくる何世紀も前にこの都市は廃墟になっていましたが、テオティワカンを発見したアステカ人とその支配者はこの地を礼拝の地、そして祝いの儀式に使うようになります。そして、この地をテオティワカン(神々の都市)と名付けました。
見どころは、世界でも3番目に大きい太陽のピラミッド、月のピラミッド、死者の大通り、ケツァルコアトル神殿の他にも、壁画や彫刻、そして博物館などがあります。この都市はテオティワカン人の宇宙観、宗教観を表すよう、極めて計画的に設計されていて、太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道「死者の大通り」が基点となり各施設が配置されています。テオティワカン人の高度な数学、天文学の知識を表しています。この遺跡で祀られる神々は、農業・文化と関係深いケツァルコアトルや水神トラロック、チャルチウトリケ、植物の再生と関係あるシペ・トテックなどがあります。近年の発掘調査から、多数の殉教者、生け贄を捧げる風習が存在したことが判明しています。しかし、この遺跡に関しては未だに解明されていないことが多く、謎に包まれています。
(写真:トリップアドバイザー提供)
テオティワカン遺跡のハイライト、世界で3番目に大きいピラミッドです。高さは神殿を加えて74m、底辺は225m×222mです。そして階段は248段にも及びます。これより大きなピラミッドは、エジプトのクフ王のピラミッド、そしてメキシコのチョルーラのものだけと言われています。
紀元前100年ごろに300万トンもの石を、鉄器や車輪などを使わずに完成されました。ピラミッド中央に続く道を地下に見つけ、そこに宗教的な美術品が発見されました。そして、テオティワカン人のその高い天文学の知識から、年に2回太陽が天頂点に達した時ちょうどピラミッドの真上にくるように、また夕刻には真正面に沈んでいくように設計されています。建設当時はピラミッドは真っ赤に塗られており、夕方には反射したその光が美しかっただろうと思われます。このことから、アステカそしてテオティワカン文明でも太陽が信仰されていたとされています。
月のピラミッドは、死者の大通りを北に進んだ正面に構えています。太陽のピラミッドよりは小さく、現在は遺跡保全への配慮から、途中までのみ登ることが可能です。
紀元前350年頃に建設され、高さ46m、底辺150m×140mです。均整のとれたそのデザインはとても美しいです。月のピラミッドの上からは、死者の大通りが続いていて、絶景です。月のピラミッドの前にある月の広場には12もの寺院がならんでいて、ピラミッド含めた13という数がメソアメリカの暦において、重要な日にち計算の数字であったのではと考える専門家もいます。そして月の広場の祭壇では、宗教的な踊りが開催されていたと考えられています。
テオティワカン文明の衰退は800年頃で、その理由はわかっていません。テオティワカン遺跡の建物には火による破壊の跡が見られます。他の部族と戦争をしたことや、また内戦があったのではとも考えられています。
(写真:トリップアドバイザー提供)
死者の大通りは、テオティワカン遺跡のメインの通りです。ほぼ南北に続く道は幅約45m、長さは約4kmあります。年2回、太陽のピラミッドの真上に太陽がくるように設計されているため、それに合わせてこの道も北から東の方向へ約15度傾いています。
「死者の大通り」とは、この地を訪れたアステカ人が通りの両側に並ぶ建物の跡を王の墓と見間違え、更に道から多くの遺体が発見されたことから、この名が付けられました。
(写真:トリップアドバイザー提供)
シタデルという正方形の形をした建物群がテオティワカンの最南端にあります。最も有名なものはケツァルコアトル神殿で、西側に位置して250年ごろに建設されました。これは当時の最高権力者の住居でもありました。隣接する2つの建物には数々の部屋とパティオがあり、ここで都市の行政や宗教的な儀式を司っていたのではと考えられています。
ケツァルコアトル神殿のファサードはとても特徴的で、ケツァルコアトルと雨の神トラロックの顔が交互に彫刻されています。ケツァルコアトルは鳥+蛇、羽毛の生えた蛇をモチーフとした豊穣の神を指します。カタツムリや貝殻、水のモチーフなども一緒に描かれています。当時は色が付けられていたそうで、そのデザインは圧巻です。
(写真:トリップアドバイザー提供)
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